「神頼み」と言うけど結局は自分なんですよ?

こんにちは。

先日の松本へ行った際には御朱印をもらうために神社を周りまして、神社に行くからにはお参りもします。神社というと恐らく多くの人は、賽銭を入れて手を合わせて「願い事」をするでしょう。しかしこの「願い事」を叶えるのは神様ではなくて自分自身なんですよね。結論から言っちゃいましたが。

参拝するだけで願い事が叶うのであれば苦労はしない

お願い事って多くは「お金持ちになりますように」とか「○○大学に合格できますように」とか「家族が健康で暮らせますように」みたいなものですよね。僕も参拝した際には「このブログがもっと盛り上がりますように」みたいなことを言ったりします。

ただ結局のところ、僕がこのブログを更新し続けて記事が増えなければ人の目にはつかないし、書く内容も吟味しながら時には人の役に立つ記事も散らばめたりするなど、一言で言うなら「継続する」ことが前提条件です。そしてそれをやるのは他ならない僕自身です。

お金持ちになるのだってそれなりの努力が必要だし、大学に合格するのだってそれ相応の学力を身に付ける必要があるし、健康でいるためには食事や運動のことを考えたりする必要があります。そのための努力をせず、ただ神社でお願いをしたら叶うのであれば誰も苦労はしません。

不労所得で暮らしたい

Twitterなんかでたまに見かけます。「不労所得で暮らしたいなぁ」なんて願望を。じゃあそのようなことを言う彼ら彼女たちはそのために何をしているのかと言うと、何もしていません。ただ「不労所得で暮らしたい」とつぶやくだけで、お金は空から降ってくるものだと思っているようです。

そんなに不労所得を得たいのであればブログを始めるなり、投資をするなど何か始めればいいものを、それすらせず「不労所得で暮らしたい」とか1年前と同じようなことを言ってたりするのです。彼らにとって「神頼み」ってそういうことなんでしょうね。恐らく1年後も同じようなことを言ってるだろうし、一生のうちに起こるかどうかもわからない「奇跡」を待ち続けて年老いていくんだろうなと、とてもいい反面教師でいてくれます。

神頼みは一種の決意表明

「願い事」を叶えるのは本人の行動や努力が結びつくものであり、そうなると神社で神様にお願いというのはちょっと違っていて、あれは一種の決意表明みたいなものだなと僕は思います。願い事とそれに対して自分はどうするというのを神社で宣言して身を引き締める、そういうものなんじゃないかなと。

自己啓発本を読んでそれを実行してみたりするのと同じように、自分が動くきっかけを作る。それに近いものがありますね。「宝くじ当たらないかなぁ」なんて思っても、肝心の宝くじを買っていなかったら当たるものも当たらないですよ。

それではまた!

このブログを書いている人はこんな人

こうりん
中年です。サラリーマンやってます。
東京オリンピックまでには東京を脱出します。